創建969(安和2)年と伝わる。創建当時は真言宗寺院 福住院(ふくじゅいん)と号す。13世紀 親鸞聖人(浄土真宗宗祖)が東国巡錫(じゅんしゃく)〔※僧が教化などのために各地を巡り歩くこと。〕の途次、立ち寄られ、当時の住職、釋賢徴(しゃくけんちょう)が親鸞聖人との出遇いを縁として、浄土真宗に改宗し、寺号を善仁寺と改めた。

「石川山 福住院 善仁寺 境内古跡年貢地三六三九坪 内門前町屋有之(←善仁寺門前町というものがありました)当寺者安和二巳年之草創往古者真言宗に而福住院と号す御朱印地境内八千坪(又者壱万坪と書出せし事有近辺一円当寺境内と申伝ふ)」

山門と前庭と本堂
ご本尊は阿弥陀如来(木造)
客殿和室(一部)

極楽水

善仁寺には親鸞聖人がお立ち寄りになった際の奇瑞の出来事が伝わっています。江戸時代にまとめられた「寺社書上」には「東本願寺末 小石川 極楽水」について、
「然るに宗祖親鸞聖人当国経回之節当院(善仁寺のこと)に入来在之暫く休ひ給ひて水を乞せられ候所境内高地にて井(井戸)深く一釣も手間取けれは聖人あわれみ給ひ御杖にて大地を堀給ふ清水淘々(とうとう)とわき出る(其井を極楽水と号し妙水にて名高くして此辺之地名となる)」との記述があります。

親鸞聖人が杖で地面を掘ったら清水が湧き出したというのです。そしてそれが後に極楽水と称されるようになったという内容です。

善仁寺の梵鐘

善仁寺の梵鐘は第二次世界大戦中に国に供与されて、戦後は戻らず、新たに制作されました。制作をお願いしたのは人間国宝の香取正彦氏(1899~1988年)です。香取氏は比叡山延暦寺の梵鐘や、成田山新勝寺、そして広島の平和の鐘の作者としてもしられます。香取氏作の梵鐘は独特な形状で、美しい響きがします。
昭和57年に完成しました。鐘には、幼年に事故によって他界した前住職の息女のご法名が内側に刻まれています。
大晦日の夜には除夜の鐘が催され、多くの方に撞いていただきます。
二度と善仁寺の梵鐘が武器の材料として供与されることがない世の中であることが切に願われます。

住職Check!

親鸞聖人の奇瑞は、幽霊退治など関東をはじめ数多くあります。極楽水の言い伝えから分かることは、親鸞聖人在世中13世紀のときに、すでに善仁寺には井戸があり、おそらくは現在使用している井戸を指していると思われます。さらに言えば、古代より井戸などの水場は霊場や社などがあり、そのような場所に真言密教寺院が建立されることがあったといわれます。その後、真宗寺院へと改宗したということでしょう。補足ですが、親鸞聖人に同行して性信房も来られたということです。

七高僧庭園

約300坪の緑あふれる庭園。念仏の教えを親鸞聖人まで伝えた歴史を七人の方を象徴として選び出し「七高僧(しちこうそう)」と呼びます。庭園はこの七人の高僧になぞらて石を配置して念仏を教えを枯山水の河に譬えて庭園のモチーフとしています。2015年大改修により生き返った善仁寺自慢の大庭園です。初夏にはサツキが満開となり、秋には紅葉の燃えるような紅葉が美しく彩ります。

山門

善仁寺の正門から参道を上がってきて正面に見える山門です。
善仁寺は昭和20年5月の東京大空襲で伽藍すべて焼失してしまいました。その後、ご本堂、客殿、鐘楼の再建を終え、この山門をもってようやくにして元の姿を取り戻しましたのです。この山門は平成元年に竣工しました。多くの方々のご懇志により再建されました。戦前の写真が残っておりますが、現在のご本堂や山門よりもかなり大きいものでした。もちろん地方や大きな寺院に比べれば小ぶりな山門ですが、善仁寺を訪れて下さった方にとって、顔となるような門であろうかと思います。

住職Check!

七高僧とは念仏の教えを親鸞聖人まで伝えて下さった方々を代表して、親鸞聖人がお選びになられた七人の僧侶です。第1祖は龍樹菩薩、第2祖は天親菩薩、第3祖は曇鸞大師、第4祖は道綽禅師、第5祖は善導大師、第6祖は源信僧都、第7祖は源空上人(法然)です。東京三組組報「縁」の第7号に特集で簡単にまとめさせていただいておりますのでご参照ください。お釈迦様がご誕生になられましたインドに始まり、中国、日本と三国(三朝)に時代と国をまたがって伝わってきています。